僕たちは物事に『名前』をつけます。
そしてその名前の付け方で、
印象が変わると知っています。
今日、ロシアとウクライナが
戦争状態になったというニュース…
どちらにも、
言い分があるでしょうし、
『地政学』という長年の懸念もあるでしょう。
でも、派兵とか軍事介入、侵攻という
オブラートを使った表現を使ったとしても、
今、していることは、
他者を殺傷するための道具を使った
市民を巻き添えにした
指導者の欲を満たすための
一方的な暴力表現ですよね。
『殺し合い』な訳です。
言葉の使い方で、
イメージは変わるかもしれないけど、
していることは極めて非人道的なわけです。
スティーブン・ギリガンの
ワークショップには世界中から
人が集まります。
中国からも、台湾からも、ロシアからも、
かつて、ソ連とドイツの両方に
侵略されたポーランドからも。
そして今から10年以上前に
ロシアに軍事介入された
『ジョージア(グルジア)』からも。
僕も、全員と友達です。
ともに学び、セッションをし、
笑い、涙を流し、癒しを生む。
時に踊り、お酒を飲んで
大声で語る…
そこには争いはありません。
コミュニケーションの質として
価値あるものが『変化』と
その『持続性』としたなら、
力による一方的な暴力は、
相手から変化を引き出せますが、
それは長続きしません。
変化は長続きしませんが、
それにより副次的に体験する
トラウマや心理的な傷、
感情は相手の心に残り続けます。
時に、世代を超えて、
人の心に残り続けるのです。
僕がセッションした
ポーランドの男性は、
自分の無力感の源が、
おじいちゃんが教えてくれた
ナチによるコミュニティの破壊、
夜中に扉を蹴破って、
家族全員を広場に引き摺り出した
ゲシュタポのストーリーでした。
中国、杭州で弁護士の
仕事をしている参加者は、
彼女の祖母から、第二次対戦中、
僕たちの日本人の軍隊が、
杭州で自分達にしたことを語り、
『日本人を信用するな』と
教わったと教えてくれます。
かつて広島の呉で、
ファミリーコンスタレーションの
ワークショップをしたとき、
1人の若いクライアントが出した
問題を付置したら、
ぽっかり空いた爆心地を見つめる家族。
ここで重要なことは、
ことの真偽ではありません。
どの国が正義で、どの国が悪い、
という判断でもない。
望まない相手に対して、
ふるわれた一方的な力も、
一つのコミュニケーションです。
そしてそれは、
長きにわたり僕たちの
アイデンティティに傷を残します。
誰かの心に傷を残す、
その次の代、さらに先まで…
そんな関わりが今、行われています。
世界のリーダーたちは、
その責任を負う覚悟はあるのだろうか?
いつになったら、
僕たちは協働的なコミュニケーションが
できるようになるのだろうか…
残念で無力を感じています。
では!