今日も名古屋のホテルから書いています。
言語学のトレーナートレーニングが
午後からなので、
正午のチェックアウトまで、仕事しています。
これを配信直後に
読んでくださっているなら、
僕は東名高速をかっ飛ばしてる頃でしょう。
さて
YouTubeのコンサルさんに聞かれました。
神さんは、東大の入学式での
河瀬監督の講演、どう思いました?
すみません…物議を醸したことは
チラッと見聞きしていましたが、
ふぅん、くらいにしか捉えてませんでした。
ひろゆきさんが、このスピーチに対して
「喧嘩両成敗とか言ってる人、
ロシアからお金をもらっているか、
頭悪いのかどちらですか?」
と発言していたので、
神さん、これYouTubeで話してくださいよ。
そう言われたので、
今日は朝から河瀬さんのスピーチを見てました。
ひとことでいうと映画監督だな。
監督の頭にあることイメージが、
人の心にさまざまな観念を
呼び起こすように、
『エヴォカティブ』に書かれています。
もちろん僕には、政治信条もありますし、
価値観に基づくものの見方があります。
それは非常に強く凝り固まったものと
自分も、他人も認めるものだと思います。
簡単にいうとガンコってことです。
でも、誰かの見解や
それが表現されたスピーチを
理解しようとするときには、
それを横に置いて
何が話されようとしているのか
について捉えられるように
自分を訓練してきました。
もちろん、
頭の中に自分の反論が
出てくるのですが、
それをしているときは、
その声が「支配的」にならない。
むしろ、内側の声を小さくする。
そんなことができます。
なんでそんなことまで
『聴く』ことができるんですか?
セッションでよく言われるのは
これを使っているからです。
河瀬監督のスピーチの分析は
今後のYouTubeを見ていただくとして、
このスピーチに対して反論が起きた、
しかも、国際政治学者が反論した。
物議を醸していることについて
非常に不思議な気持ちになります。
これって物議なの?
そう思います。
河瀬監督のスピーチは、
我々の意味の付け方。
これから経験を積んで、
その経験を意味づけすることで
『信念』を編み上げていく学生に
観念を作り上げる上で、
自分はどのようにしてきたか、
ということを
『平和』、または『脱戦争』という
アイデアを自分の中に作り上げた
人生経験をメタファーに
聴衆に語りかけています。
そして一方、
河瀬監督のスピーチに反論した、
と推測されるツィートをしたのは
国際政治学者の方。
ご自身の分野における慧眼を
披露されています。
これまたすごい。
でも、です。
国際政治学者の注目点は
実際に起きた『紛争』と『侵略』
という行動について、
どう解釈すべきか、
について話されています。
観念と行動。
これは論点が違う。
そして価値があるのは、
件の政治学者の方も、
『意見』として表明しており、
誰かを貶めることを
目的に表現されていないということ。
異なる意見があっていい。
でも、私はこう思う。
なぜなら、私がしてきた
専門分野における研究では
こういう考えだから。
この観点に基づくと
あなたの意見は私とは違う。
多様性ということが叫ばれる今日、
吉野家の取締役の発言を糾弾した人も
『多様性』を価値観にあげて
糾弾していました。
多様性って多様性を持たない人を
社会的に断罪して、
似たような考えを持つ人たちの、
あるフラストレーションの吐口を
作り出すことなんだろうか?
多様性とは、私とあなたの意見が違う。
それはそれでOKだ。
自分達が考える多様性を
持ち合わせない人を排除するのは
果たして多様性と言えるのか?
今、
多様性に限らず、
ある意見を信じる人たちが
そうでない人たちを排除しようとする
『観念の魔女狩り』思考が
僕たちの中を静かに、
でも非常に急速に浸食している。
そんな危惧を感じます。
1960年代に、
非常に独特な方法で
セッションをしていた、
ゲシュタルト療法の
フリッツ・パールズ。
彼は、甘い人間性心理学が
大嫌いだったようで、
当時人格者と呼ばれていた
温厚な心理学者であり
人間性心理学の権威だった、
あのマズローにマズロー自信が
毛嫌いするような行動をとって
マズローが怒って、パールズとは
同じ会議に出席したくない、
とボイコットさせたことでも
知られています。
僕はこの逸話を聞いた当時、
すげ~パワフルな人だな。
そう思うだけでしたが、
ここ最近、
多様性という考えをもとに
個人を徹底的に潰すという
行動を平気でする
SNSの流れを見手たとき
ふとパールズの
『ゲシュタルトの祈り』を
思い出しました。
“わたしはわたしの人生を生き、
あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待に応えるために
生きているのではないし
あなたもわたしの期待に応えるために
生きているのではない。
わたしはわたし。あなたはあなた。
もし縁があって、
私たちがお互いに出会えるのなら
それは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、
それも仕方のないことだ。“
こんなことを考えています。
あなたは今、何を想うでしょうか?
では!
追伸:
人の物言いはそれぞれですが、
意見の違いを頭の出来に
帰結させるのは、
どうなのかな?と思います。
こんなこと言うと
論破王に論破されちゃうでしょうけど。