『コーチング4.0』レター 第13話
昨日、玉置浩二の
コンサートに行ってきました。
魂揺さぶられました。
本当に人間というのは
声を出すだけで
ここまで人の心を
震えさせることができるのかと、
いや本当に圧倒されました。
デジタルが一切ない。
全てアコースティックで
バンドのメンバーが
一糸乱れぬチームワークで、
無駄なものがなく
一つひとつが
とても洗練されている。
あ〜言葉にすると、ほんと陳腐になる。
本当、聴きながら泣くって
そうそうあることじゃないなと、
大の大人がですね、
すごいなと思います。
書いていて思うんです、
言葉にすると陳腐だなぁと。
言語化は体験を陳腐にする。
まさにこれを今、
経験しています。
言語化とは
理解可能な言語にして、
自分も含めて誰かに
伝達するための手段に
置き換えるわけです。
でもそこには限界があります。
どうしても言葉にすると、
自分の内側で起きているもの、
そして自分が経験したもの。
それは実際には
言葉の枠に収まりきる
ものじゃないのに、
その中に無理やり詰める。
そうすると、
実際の自分自身がした体験とは
遠いものになってしまうことがある。
実際、クライアントが
感じていること、
それは明快に言葉にすること
なんてできないわけです。
でも支援の場面では、時に
それを言葉にすることを
むしろ強要してしまう。
「具体的には
どうしたいんですか?」
「これができたら
何が起きますか?」と。
自分の中で体験する前に
言葉にしてしまうと、
それは本物ではない、
「自分の言葉であって
自分ではない」ということが
起きてしまう。
そして経験した後でさえ、
言葉にすると
実際に経験したものとの間に
大きなズレが生じてしまう。
僕たち支援者は、
言葉の持っている限界というものを
割り引いて支援をする
必要があります。
じゃあ、僕たちは
一体何を基準にして
その言葉が
クライアントの内側の経験として
近しいものだろう、
あるいは似て非なるものだろうと
識別することができるのか?
そこに観察」というものの
重要性が出てきます。
観察というのは解釈と違います。
観察というのは判断ではなく、
何を基準に識別するかということです。
クライアントが
話しをする時の
「声の出どころ」や、
どのような「声の質」で
話しているのか。
例えば、問題を話すとき、
喉に引っかかりがある、
まるで風邪を引いた時のように
喉に何かが溜まったような
話し方をしているとします。
喉に何かが詰まっているように
ストレートに出てこない。
これは観察です。
言いにくいのかな?
話しにくそうだな…
これはその現象を
こちらの理解に置き換えた解釈です。
そして、
セッションが終わった後には
その詰まりがなくなっている。
すっきりしたな。
これ解釈です。
僕たちが解釈する
その手前に起きていることに
意識を向ける…
これがセッションの変化を
確実なものにします。
コーチング4.0のトレーニングで
よく引き合いに出す
ミルトン・エリクソンの言葉があります。
それは
『観察しなさい、
でもそれを超えてはいけません。』
というもの。
観察と解釈の一線を
戒める言葉として
僕はいつも胸に留めています。
では、いったい何を
どのように観察すれば良いのか?
明後日から始まる
コーチング4.0のライブで
そんなお話もできたら良いな、
そう考えています。
神 崇仁(こう たかひと)/このページはメールでお届けした文章です。