先週末、
伊勢丹の理容室に行ったんです。
急に予約したので
いつもの担当者は休み。
その日の担当は
80歳になろうかというおじいちゃん理容師でした。
白衣の袖から伸びる細い手。
すこし茶色くなった指先。
ほんと大丈夫??
心の中で、
ちょっと心配に。
というのも、あなたも
あんまり経験ないんじゃない?
背中が曲がって見える
”おじいちゃん”みたいな人に
髪を切ってもらう経験…
僕は初めて…
でも、意外としっかりしてました。
少なくともカットは。
刈り上げなんて、職人技。
でもホッとしたのも束の間、
次は顔剃りです。
カミソリを持ったおじいちゃんの手が、
プルプル震えてるんです…
これは怖かった…
顔に傷がついた
自分を想像して…
汗かきました。
でも、おじいちゃん理容師が
僕の肌に当てた
カミソリのスムーズさは
プルプルしてる手とは
全く違う別人でした。
ところが
「次はシャンプーですね」となった時。
驚愕の事態が待っていました。
(ちょっと待って…)

このお話の続きの前に、
最近、面白いトレンドの話題を耳にしました。
大手広告代理店などで、
改めて『承認の解釈』が
議論されているらしいんです。
「褒める(評価)」よりも、
「認める(存在やプロセスへの共感)」ことへの
ニーズが高まっているのだとか。
あなたはどう思いますか?
「褒める」というのは、
相手が出した『結果』に対する評価です。
一方で「認める」というのは、
その人が『プロセス』を進んだこと自体を受け入れること。
思うに…
どっちが大事、ではなく、
どっちも大事。
エリクソンがポリオで倒れたのは
18歳の夏でした。
農場のベッドに寝たまま、
身体の感覚が消えていった。
目と耳だけが残った。
天井のシミ。
鶏の鳴く声。
遠くで誰かが水を汲む音。
その静けさの中で
エリクソンは
やっとハイハイを始めたばかりの妹を
ずっと見ていました。
テーブルの脚を握る小さな指。
プルプル震える両膝…
しりもち…。
また立ち上がって…
また転んで…
あなたも子供が
ハイハイから歩くプロセスを
経験してきたでしょうから
誰も
「同じ側の手足が同時に出るからこけるんだ!」
と指導したり
「筋力がついてからにしなさい!」
と諭したりしないでしょう。
エリクソンの妹は、
転ぶことを通して
歩くことを覚えていったのです。
エリクソンは後に患者たちに語りました。
「あなたは、どうやって歩くことを学んだか
覚えていますか?
覚えていませんよね。
でも、あなたの身体は覚えている。
転びながら、覚えたのです」
もちろん、誰だって
「うまくやりたい」と思いますよね。
評価されたい。
納得したい。
この二つは大きく違う。
人は誰でもできたことを
見ていてほしいと思う。
でも…
「見ていてほしい」の中身が
ここ数年、静かに変わってきているのだそう。
「褒める」は、結果に向けられる。
「認める」は、プロセスに向けられる。
その違いが、どれほど大きいか。
あなたにも覚えがありますよね?
頑張ったのに結果が出なかったとき、
誰かに「よく頑張ったね」と言われた瞬間の、
あの安堵感。
あれは「評価」ではなかった。
「存在への共感」だったんです。
エリクソンは、
床に置かれたゆりかごの中で
妹の歩みを
ひとつひとつ観察して
心に留めました。
足の出し方
手と足のバランス
立つための筋肉の順番。
バランスを崩すタイミング。
転んだあとの立ち直り方。
そして自分でも
少しずつ、指先から動かし始めた。
私は人生で2回
歩き方を学んだ。
最初は無自覚に…無意識で
二度目は、観察して、意識的に…
あのおじいちゃん理容師は
椅子を倒さなかった。
倒せなかったのか?
倒さなかったのか?
でも
うつ伏せで洗われながら
お湯の流れを首の後ろに感じながら
ぼんやり思ったんです。
「この人、ずっとこうしてきたんだな」
結果だけを見ると
普通の理容室でした。
でも、あの時間に
何があったか。
うつ伏せのシャンプー体験…
そのプロセスが
僕だけの記憶として
残っている。
結果はみんなに見えます。
プロセスは、
本人にしか見えない。
だからこそ
「認める」ことは
その人の見えていない部分に
光を当てること…
ふと、そんなことを思いました。
では!
